北海道未来への投資3  「後志の由来となった阿倍比羅夫伝承の地を巡る」

北海道の未来への投資
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北海道の未来を創造していくうえで、北海道のアセットを見つめ直すことは重要です。北海道後志(しりべし)エリアには泊発電所がありますが、その他にもいろいろな魅力があるはず。

日本原子力文化財団の協力を得て後志を巡る旅の3回目は、後志という名称の由来となった「阿倍比羅夫」の伝説を辿って「倶知安町」と「喜茂別町」を訪ねました。

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阿部比羅夫って何をした人?

日本書紀に初めて北海道の地が登場

高校の日本史の勉強をしていると、7世紀の斉明天皇の時期に東北の反勢力を討伐した「阿部比羅夫」(あべのひらふ)という将軍が登場します。日本書紀に初めて北海道の地が記されるのがこのときです。道産子としてはとても気になる歴史です!

阿部比羅夫は658年、粛慎(みしはせ)を平らげ、ヒグマを2頭、その皮70枚を朝廷に献上しました。ヒグマは本州には生息していないので、北海道の地まで侵攻してきたと考えられます。また、659年には後方羊蹄(しりべし)に政を設置しました。

大日本名将鑑 阿倍比羅夫

江戸時代に至り松浦武四郎が、尻別川流域がこの場所に当たると推定し、後志国と名付け、そこにある山を後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けたのです。「しりべし」とはアイヌ語が由来になっているわけではなく、7世紀にいた阿倍比羅夫に由来するということです。なお、阿倍比羅夫はアイヌからの救援の要請を受けて粛慎と戦ったとも伝わっています。1300年以上昔に北海道の地を平定した大将軍が阿部比羅夫なのです。

京極町から眺める羊蹄山

阿倍比羅夫伝承の地

後志には阿倍比羅夫を祀っている神社がある

そんな実在した大将軍を祀っている神社が後志にはあります。ひとつは倶知安町にある「倶知安神社」、もうひとつは喜茂別町にある「比羅夫神社」。ということで今回の目的地はこちらになります。

どちらから先に訪ねるべきか迷いましたが、倶知安神社の方が大きな規模であることから、先に倶知安神社から訪ねることに。最終的にこの判断は吉と出ます。

旭川市を午前6時に出発。高速道路をひた走り、札幌を通過して小樽へ。ここからは国道393号を走ることになります。赤井川村の山と森を抜け、倶知安町に到着したのが、午前10時ごろ。毎度のことながら旭川から後志は遠い。国道276号にぶつかって右に曲がるとすぐに倶知安神社がありました。鳥居もすぐわかるところにあり、迷うことはありませんでした。


倶知安神社は明治29年に誉田別尊(応神天皇)の御分霊を祀ったのが最初で、阿部比羅夫将軍を増祀したのは昭和17年のこと。阿倍比羅夫は後志開拓の祖神として祀られていました。境内には倶知安神社御祭神由緒の看板も立っており、そこには阿部比羅の名前も確認できます。

倶知安神社の神主様からお話をうかがえました

阿倍比羅夫をなぜ祀っているのか、倶知安神社の神主様に尋ねたところ、その経緯を聞くことができました。事前に調査した内容が正しいものだと裏付けることができましたし、それ以外にも明治期のロシア南下政策への対抗措置として、古くからこの地は日本人の領土であることをアピールする狙いもあったようです。

また後志神社ガイドに、倶知安神社は掲載されているのに、喜茂別町の比羅夫神社が掲載されていないことに疑問を感じて質問したところ、管轄や格付けが違うようです。私のiPhoneのマップで探しても比羅夫神社は表示されず、カーナビでも検索できなかったので、道のりを聞いたところ、276号を進めば鳥居が見つかるとのこと。

比羅夫神社は夏草に埋もれている

参拝してから一路、比羅夫神社へ。羊蹄山の山麓を回っていく感じで、京極町を通過し、喜茂別町に入ると、右カーブの場所に閉鎖されたお店と、鳥居を発見。なるほど、これは倶知安神社とはまったく様子が違います。神主様のような管理者もいないし、手入れもされていないので、葺きや雑草と地面が埋め尽くされています。

看板もあり、そこで比羅夫神社であることははっきり確認できました。明治33年にこの地で発掘調査を行った河合篤叙という方が阿倍比羅夫の政庁はここであったと主張したことで創祀されたようです。喜茂別町では阿倍比羅夫の遺跡発掘にかなり尽力していたことがわかります。

ただし、阿倍比羅夫の政庁の正確な場所は未だにわかっていません。実は余市町でも7世紀の鉄刀が出土しており、互いに政庁は自分の地にあったと主張しているようです。北海道新聞の記事によると、昭和46年に倶知安町で阿倍比羅夫えぞ地征討記念碑を建設しようという動きがあった際には、余市町がかなり反発したそうです。

阿倍比羅夫の軍勢がどちらにも滞在していた可能性がありますが、政庁をどこに置いたのかは謎になっているだけに興味深いですね。ただ、比羅夫神社の荒廃ぶりが、これはこれで風情はあるものの何かもったない気がしました。

まとめ

北海道は歴史が浅いという思いが強く、京都や奈良に行くと、何かうらやましい気持ちになっていましたが、実は日本書紀に記載されているような、1300年前以上昔の歴史も北海道にはあったのです。これにはかなり驚きました。実際にこのことを知らない道民も多いのではないでしょうか。もっと詳しく調べてみたいテーマです!

また「しりべし」の語源にはアイヌ語が関係しているという諸説もあるようです。こちらについても次回の探訪で深掘りしていきたいですね!情報をお持ちの方はぜひ教えてください!

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