北海道未来への投資4  「後志の由来となった阿倍比羅夫伝承の地を巡り余市町へ」

北海道の未来への投資
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北海道の未来を創造していくうえで、北海道のアセットを見つめ直すことは重要です。北海道後志(しりべし)エリアには泊発電所がありますが、その他にもいろいろな魅力があるはず。

日本原子力文化財団の協力のもと後志を巡る旅の4回目。前回は後志という名称の由来となった「阿倍比羅夫」の伝説を辿って「倶知安町」と「喜茂別町」を訪ねましたが、実は今回訪れた余市町にも阿倍比羅夫伝説が密かに眠っているのです。そこはまさに密林。インディージョーンズのような冒険をしてきましたので、お伝えいたします。

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阿倍比羅夫碑の存在

後方羊蹄(しりべし)の政所が余市町にあった説

日本書紀には、斉明5(659)年に阿倍比羅夫が水軍180艘を率いて蝦夷を討った後、後方羊蹄(しりべし)に政所を置いて統治したと記されています。前回は、羊蹄山の麓にある倶知安町や喜茂別町にその痕跡があるという内容をお伝えしましたが、実はそれよりもいち早く政所の場所であったことを宣言していたのが「余市町」です。

昭和28(1951)年に、明治大学の地方史研究所が調査し、その報告から余市郷土研究会は阿倍比羅夫が来たのは余市町だと考察しました。ですので、昭和46(1971)年に倶知安町で、阿倍比羅夫えぞ地征討記念碑を建設しようとした際には反発しています。

余市町に阿倍比羅夫碑建立

今回の目玉は、このような論争が熱かった時代に余市町に建立された「阿倍引田臣比羅夫之像」をこの目で見ることです。建立年は昭和50(1975)年ですから、47年ほど昔の話で、ちょうど私が生れた年にあたります。

これを見つけ出すのが一苦労で、まず余市町役場に問い合わせしても、職員がその存在を知らないという状態です。余市神社の神主の方がご存じだということで、お話を聞いたところ、確かにあるとのこと。ただしその話を知っているのは役場でも部長クラスの年長者で、若い人はもちろんそんな論争があったことも知らないそうです。この時点でかなりミステリアスですね。

神主さんに事前に教わったこととしては、「見つけにくい場所にある」、「暑くても長袖、長ズボン着用。軍手、長靴は必須」ということで、見つけ出すためには、かなりの覚悟が必要だということだけわかりました。しかし、この話を聞くと余計に見たくなりますよね。

車を降りてから着替え

阿部比羅夫碑情報

探索難航

運悪く大雨が午後から降る天候ということもあり、午前8時30分には余市町に到着しているという過去一番速い探索開始。探索スタートは事前にお話をうかがえた余市神社

しかし、この時点ですでに大雨。しかも、目的の余市神社に着いたものの、受付は開いておらず、話がうかがえない状態でした。

時間が早すぎるのかとこの後、3度訪れましたが、結局誰にも会えませんでした。ちなみに倶知安神社では阿倍比羅夫を祀っていましたが、こちらでは特に祀ってはいませんでした。

よいち水産博物館へ

阿倍比羅夫の頃の遺跡や阿倍比羅夫碑所在の情報を得るため、余市町の歴史民俗資料館である「よいち水産博物館」へ向かいます。余市神社からは小樽方面に戻ること8分ほど、山道を登ったところにありました。

ところがなんと休館日。実は月曜日はお休みだったのです。受付室内は電気がついていて明るくなっているものの、館内には入れません。

阿倍比羅夫碑探索が八方塞がりになったと愕然としていたところに救いの神が現れます。受付の女性がこのタイミングで博物館に来ていたのです。

阿倍比羅夫の頃の遺跡などが展示されているのかうかがったところ、残念ながら見つかっていないとのこと。若い方でしたが、阿倍比羅夫については知っているようで、阿倍比羅夫碑の文献はあるとのことで、親切にコピーをいただきました。この文献で正式名が「阿倍引田臣比羅夫之像」であることを知りました。建立はやはり昭和50年。所在地は港町旧稲荷神社跡と記されています。

写真は白黒でややわかりにくいですが、碑前の石畳は旧稲荷神社の土台石、碑への石段は町指定文化財となっています。この碑には「後方羊蹄郡領之標」と刻まれています。つまり阿倍比羅夫が設置した政所はここであるという宣言ですね。

この場所はかなりわかりにくいということで受付の方がわざわざ場所のストリートビューを見せてくれました。うっそうと生い茂った草木の間にわずかに石垣が確認でき、ここが入り口だとか。場所は余市神社の近辺。また元来た道を戻ります。

阿倍比羅夫碑探索談

石垣発見

受付の方の話に従って車を走らせていくと、ついに石垣を発見。ここに間違いありません。

その様相はジャングルの中に埋もれた古代遺跡のよう。しかも最近の北海道では熊出没の事件が多発しており、やはりこの辺りにも熊注意の看板がありました。危険度もジャングル並と言えるでしょう。

とりあえず長袖長ズボン、軍手に長靴、そして熊よけのサイレンが鳴るものを手にして車を降ります。ここで大雨になっていたら探索はあきらめていたでしょうが、なんと奇跡的に雨が止んでいたため、傘を持たずに進むことができる状態。

密林に足を踏み込む

本当にここに入るの?という疑問と不安を抱きながら、植物をかきわけ中へ。確かに石段がありました。しかし地面も頭上も植物に囲まれた空間。おそるおそる石段を登っていきます。以前余市神社の神主さんから蛇にも注意するようアドバイスを受けており、本当に慎重に進んでいきました。

そしてついに阿倍比羅夫碑を発見!凄い光景ですが、確かに文献に掲載されていた白黒の写真と構図は同じ。

像の右上の面には、「阿倍引田臣比羅夫之像」、左下の面には「宣言」が刻まれています。北海道最古之都十一代余市町長坂本角太郎と刻まれています。

日本書紀の文面も刻まれており、基座の碑文には、後方羊蹄の解釈について、研究調査の結果、後方羊蹄はシリパ山であり、政所は余市と想定したとあります。

まとめ

現在では、どこにこの政所があったのかという論争はされていないようです。今後の発掘によって状況が変わることも予想され、「余市町にあった」、「倶知安町にあった」どちらの説も否定されることなく存続しています。

はたして今後、およそ1600年前の真実を明かすような遺跡など発見があるのかどうか興味深いですね。阿倍比羅夫について興味のある方はぜひ重装備の上で、余市町の旧稲荷神社跡を訪れて、阿倍比羅夫の碑を見てみてください。

目印は石垣。そしてこの細い市町指定文化財の標識です。なおシンパ岬下の洞窟にあるという話もネット上には広まっていますが、正しくはシンパ岬の麓の山沿いです。

間近で見ると、間違いなく興奮しますよ!

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